(株)オリエンタルコンサルタンツグローバル 折下 定夫(高18回)

「開発コンサルタント」として、世界各国にて様々なインフラ構築を手掛けて来られた折下さん(高18回)のキャリア、経験は、世界に挑戦する私たち日本人の方たちに大きな勇気と誇り、希望を与えてくれます。そんな折下さんの歩みを紹介させていただきます。

  1. 開発コンサルタントに入社 (1971年)

私は1966年に西高を卒業して、1971年に「開発コンサルタント会社」に入社しました。1ドルが 360円で、海外旅行するのは夢の時代でした。大学の土木工学出身の私にもこの種の会社に入れば海外に行くチャンスもあるのかなと思っての選択でした。JICAが設立されたのは1974年で、それから日本の政府開発援助(ODA)が始まりました。ちょうどコンサルタント会社に入社して、今年でちょうど55年を越えました。日本のODAと一緒に私のコンサルタント人生はあったと言っても過言でありません。

2. アブダビ(1972-73年)

私は入社して 1年後の1972年 4月に、独立して間もないアラブ首長国連邦(UAE)のアブダビに赴任しました。アブダビは日本の石油会社の原油一時出荷基地(小さなサンゴ礁の無人島)の仕事でした。気温 40-45度、湿度 100%という過酷な中での仕事でしたが、まだ若く病気もしないで元気に任務を全うできました。まだ、日本のUAEからの原油輸入はゼロで、この原油出荷基地が完成した1973年からUAEから日本への原油輸出が始まり、現在日本の原油輸入量の約 40%強はUAEからとなっていることを思うと、私の海外デビューは大変歴史的なプロジェクトでした。何もなかったアブダビやドバイが石油資金で、現在のあのようになることは全く想像していませんでした。石油の輸出が始まっていない、遊牧民のドバイやアブダビを知っている数少ない日本人と思います。

▼ 完成したアブダビ・ムバラス島原油出荷基地

3. ニューギニア島 (1974年)

1974年にはインドネシアの西イリアン(ニューギニア島西半分)の国連開発計画(UNDP)の港湾調査に 6人の日本人で行きました。その時に、石斧や石のノミを使って旧石器時代と同じ生活をしているニューギニア高地人の部落を訪ねる機会もありました。1,500mの高地でもほぼ裸で、コテカ(ペニスサック)を身に付けて、弓矢や槍で狩猟をしていました。この部落を訪ねた日本人は私たちが初めてだったそうです。西イリアンに滞在したのは 2か月間だけですが、筆者だけが帰路高熱が出て、帰国後に東大医科学研究所付属病院の海老沢功先生の診察を受けました。「血液中(㎜³)にマラリア菌が 5万匹いますよ、あと一日遅かったら危なかったですね。」と言われました。発症してから二週間余りマラリアの治療が出来る医師に会わなかったので、かなりの貧血状態でした。海老沢先生は命の恩人で今でも名前は忘れません。

▼ ニューギニア人と私

4. ジャワ島~スマトラ島間フェリーターミナル(1976年)

私の初めての日本のODAの仕事はインドネシアのジャワ島~スマトラ島間フェリーターミナルの仕事でした。それまで首都ジャカルタがあるジャワ島とスマトラ島は貨物船で 5時間余りかかり、未開の地でした。世界で 6番目に大きな島スマトラ島とジャワ島を短時間で結ぶことがインドネシア政府の長年の願いでした。両島の最短を結ぶ地点に新しく車両がそのまま乗り降りできるフェリーターミナルを建設することになり、その調査・設計に従事しました。ターミナル完成後両島は 1時間半ほどで結ばれ、ジャワ島からは工業製品がスマトラ島からは農水産物が24時間稼働のフェリーで運ばれ、インドネシア経済発展に大きく貢献しました。今では 7バースまで増設されて、大動脈になっています。

▼2000年頃のメラク港(ジャワ島)

5. ジャカルタ漁港(1978~2012年)

そして1978年にジャカルタの旧バタビア港の片隅にあった水揚げ場・魚市場を日本の円借款で新しくジャカルタ湾を埋め立ててジャカルタ新漁港を建設するプロジェクトに参画しました。当時としては大規模な漁港プロジェクトでした。ジャカルタ沿岸は軟弱な沖積層からなり、新しい漁港を建設するには不利な条件が多々ありました。当時のインドネシアの経済状況では円借款とはいえ、いたずらに輸入材で港湾構造物を設計することは好ましくないと考えました。政府側の技術顧問のインドネシア大学ルセノ博士の提案もあり、インドネシアで伝統的に利用されている竹杭工法で、護岸や防波堤を設計してみてはどうかということになりました。竹杭・竹マット工法はある程度沈下を許す工法ですが、護岸や防波堤は岸壁などと違い天端高に多少不陸が出来ても機能上は問題ないということで、この工法が採用されました。

▼ 1984年完成直後のジャカルタ漁港

▼ 竹杭・竹マットの防波堤の標準構造図

ジャカルタ漁港は過剰な地下水汲み上げもあり地盤沈下が深刻となって、そのための追加融資に私は奔走しました。その結果1993年と2004年に拡張・リハビリ事業の円借款融資が締結され、2012年に全事業は終了しました。最初の調査から実に35年もこの仕事に関わったことになります。ジャカルタ漁港は今や東南アジア最大級の漁業基地として利用されています。この間に「マングローブ護岸・防波堤」や「潮位差を利用した港内海水浄化システム」を独自に考案して実現しました。

▼ マングローブ防波堤・護岸(2016年撮影)

ジャカルタ市内という立地条件と水産工場や魚市場で働く人々、エビやマグロの輸出品を目の前に見ることが出来て、雇用創出、外貨獲得を実現したODAの成功例として、日本人小学生やジャカルタ在住日本人の見学コースになっています。振り返ると、ジャカルタ漁港プロジェクトには40年近く従事しました。このことからJICAの要請もあり、「ジャカルタ漁港物語」を2014年に上梓しました。また、土木学会の英文アーカイブにも2020年に投稿しました。これらの活動が評価されて、令和3年度外務大臣表彰を受賞できました。

▼ ジャカルタ漁港全景(2026年4月撮影)

 6. モルディヴの人工ビーチの創造(1990-2002年)

インド洋の島嶼国モルディヴでは1990年から2002年まで、主にマレ島の護岸プロジェクトに参加し2002年にすべて完成しました。その直後の2004年にインド洋大津波がマレ島にも来襲しましたが、私たちが設計した強固な護岸がマレ島住民を津波から守り、死傷者ゼロだったということで、マレ市民に大変感謝され、日本のマスコミでも大きく取り上げられました。その他、私が発案して実現した人工ビーチが現在でもマレ市民の憩いの場としてよく利用されています。当初は海岸防災施設のプロジェクトでしたので、テトラポッドで島の周辺を防護する案でした。しかしながら、世界最大の過密首都といわれるマレ島の全周をテトラポッドで囲んでしまったら、子供たちはもとより大人もモルディヴの美しい海を自由に楽しむことが出来なくなってしまう・・・。そこで、私は人工ビーチの必要性を提案し、1997年に完成させました。今もビーチは毎日早朝から夜までマレ島のホットスポットとして、多くの方に利用されています。

▼ 世界最大の人口過密首都のマレ島(2020年3月撮影)

▼ 2004年の大津波からマレ市民を守ったODA護岸

7. その他の主なプロジェクト

その他の主なプロジェクトは➀フィリピンのジェネラルサントス漁港、ダバオ漁港(1989-1995)、②モルディヴ国 南部漁港プロジェクト(1990-94)、③サモア国のアピア港(2016-2018)、④インドネシア5つの離島漁港(2023-現在まで)

8. 主な表彰、他

➀ジャカルタ漁港プロジェクト表彰(海外コンサルタント協会2004)、②港湾功労賞(港湾協会2015)、③JICA理事長賞(2016)、④在外公館長賞(在インドネシア日本国大使2019)、⑤外務大臣賞(2021)、⑥技術功労賞(土木学会2021)、⑦小沢海外功労賞(国際建設技術協会2021)、⑧天皇皇后両陛下に拝謁(ジャカルタにて2023)、⑨国際貢献賞(土木学会2024)、⑩秋の園遊会ご招待(2024)

同窓生の皆さまもインドネシアを訪問される時には、ぜひ折下さんを訪ね、ジャカルタ漁港を見学されてみてください。勇気と誇り、希望を共有できることでしょう。